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私は1970年の夏に利用しました。確か11時東京発だったかな?自由席で勿論満席冷房無しボックス席の相方は若いお母さんと小学生の娘さん二人、私は深夜の広島糸崎で下車母子3人に手を振ってお別れ、確か大分に向かうとの記憶、53年前です。幼い女の子も孫が居るかもしれません。懐かしくも遠い出来事に成りました。私はそのまま糸崎のホームのベンチで朝まで仮眠、しかしながら夜行列車が多くほとんど寝れませんでした。ましてやC62牽引の列車等が来たら凄い振動でした。翌日に呉線の大型蒸気を見るべく呉行きの列車に乗り呉線最後の蒸気機関車を撮影しました。若き学生時代の思い出です。高千穂の記憶でした。
高千穂の記憶?えーと九州の?呉って広島ですよね?いやー自由席、満員、客車の硬い席、きついわー、見知らぬ人と話せるのは立派、私は6歳です。
@@bdhjortwbexjjw呉は九州ではなく中国地方にある地名ですよ
昭和30年生まれです。チョット先輩の旅行記を拝見させていただきました。
1870年というとグリーン車も含めて全車自由席でした。その年の10月ダイヤ改正でグリーン車は全車指定席になっている。普通車は全車自由席のままです。ヨンゴウトウダイヤ改正ではグリーン車は全車指定席か、全車自由席のどちらかになっている。それまでの一部指定席制度がなくなった。
すみません!1970年の間違いでした。大阪万博の年でどの列車もいつも以上に混雑していました。
懐かしいなぁ、学生時代に乗りましたよ!当時の大学生の旅行なんて、こういう安い列車の旅でしたから。青春18キップはなかった。
ご視聴とコメントありがとうございます。高千穂に乗車した事があるのですね。移動手段が現在よりも多くないですから、繁忙期はかなりの混雑をしていたのでしょうね。
この列車に乗っていると日没を2回見るのかと思うと改めて壮大さを実感します。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。仰る通り日没を2回と考えると、いかに長時間の運転であるかがわかりますね。最後まで乗り通した人たちとは仲間意識ができそうですね。
「ななつ星 in 九州」と違って、貴重な移動手段だったわけですねどれほどの人が、窮屈な思いをして2日間も乗り通したことでしょう
新幹線開業の直前で、まだ新大阪駅が無いです。名古屋の金山駅も無いですね。
当時の金山駅は、中央線の専用駅でした。
戸塚も瀬田もないです🌀
@@原田寛-e3u昔を思い出すと元気が出てきますね♪
@@busjack1628様戸塚駅はありましたが、当時は横須賀線の電車のみ停車していました。
@@hc-ir2dr ありがとうございます🙇♂️保土ヶ谷みたいな感じですね💦
この時代に生まれていたら東京から宮崎まで帰省で使ってみたかったな
人生で一番楽しかった時代を過ごした場所に戻りたくなってきます。
面白かったのでチャンネル登録しました。
チャンネル登録ありがとうございます。また、嬉しいお言葉ありがとうございます。これからも楽しんでいただける動画をお届けできるよう頑張ってまいります。
急行高千穂も壮大ですが、乗り換え案内に出てくる急行「あずみ」準急「うしお」「しんじ」や、東京発大垣行の昼行普通電車、飯田線の気動車列車等々今では考えられない列車がたくさん出てきて感動しました😃👍
いつもご視聴とコメントありがとうございます。また、嬉しいお言葉ありがとうございます。時刻表を読んでいると毎回色々な発見があります。そのような楽しさをお届けすることができて大変嬉しいです。
長旅列車、東京から小倉までがかなり長く遠いが、小倉から宮崎や鹿児島までがこらまた長く遠い。
待ってた。これまた内容・視点がすばらしい。この音楽と時刻表の組み合わせも最高によい。
急行列車は周遊券で乗れましたので羨ましいですね
美祢線の石灰石輸送貨物列車、そういえば青梅線もかつて、奥多摩まで石灰石輸送の貨物列車が走ってました、牽引機関車も最盛期はED16やEF15等、晩年期はEF64-1000番台でした。
これはすごい。作成するのに、相当大変だったのでは?と思う。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。嬉しいお言葉ありがとうございます。情報収集、特に著作権に問題の無い画像を探す作業に時間がかかることが多いですね。ただ、その分、鉄道の勉強もできて役立っています。
このシリーズいいですねぇ。定期的に長距離の懐かしいのを取り上げていただき、ありがとうございます。
一本の列車をこのように追う動画は全く新しい視点からで、とても新鮮に思えました。しかも、主要駅での駅弁案内までついてもう最高です!でもこれは、一つ一つの駅を追うので作成に時間がかかることは、容易に想像がつきます。どうか無理のない範囲で時間がかかっても結構ですので、いつまでも楽しみにお待ちしております!
いつもご視聴とコメントありがとうございます。また、嬉しいお言葉ありがとうございます。本当に乗った気持ちになれるような動画を作成する事が、チャンネル開設時からの目標の1つでした。仰る通り情報収集にかなり時間はかかりますが、情報を集めるほど、その列車が本当に走っているような感覚が増していきます。時刻表の楽しさをお伝えできるような動画を、これからもお届けできるように頑張ってまいります。
1970年に大阪から西鹿児島に向かって「桜島」に乗車しました。水俣で豪雨のために鹿児島線が不通になり、八代で乗り換えて肥薩線軽油、吉都線経由で小林の友人宅を訪ねる旅。帰りは臨時急行の「屋久島52号」で都城から帰阪。午後2時ごろの発車だったのに先行の特急彗星の故障で遅れに遅れて朝になっても九州内だったので、さすが日豊線と思いました。大阪以東の停車駅は米原も止まらなかったんですね。急行立山で富山にはよく行ったので、湖西線ができる前は米原には停車したと思います。県庁所在地なのに優等列車に無視されることで有名だった大津。停車しないのを不思議に思ったり。当時の客車は扉は自分で開ける式ですから、走行中でもデッキから扉を開けて外の朝の空気を楽しみました。ただ、トイレ使用中は気を付けたほうが。。。。駅弁の値段など、今から思うとすごいなと思います。64年なら大学卒の初任給は3万円もなかったと思いますから、約7~8倍で考えればいいかな。土瓶に入ったお茶は10円だったか。夏は冷凍ミカンが大好きでした。そういうこもごもを思い出させてくれた、素晴らしい動画です。また期待しています。最後に夜行列車で夜が明けてもいないのに、車掌が「あさです」と案内するのは?というクイズがありました。「厚狭」ですね。
ひとつの列車に絞ってのご案内も、良いですね🙆♀️一つ一つの駅名を見て思いを馳せています🚃
いつもご視聴とコメントありがとうございます。時刻表に載っている列車が再び走っているように感じられるような動画を目標としていましたので、少し目標を達成できたかなと嬉しいです。リストにすると駅の多さに驚き、長距離を走っていたことがよくわかりました。
@@tomoyankun さん山口県内の(長府一ノ宮駅)は、正しくは(長門一ノ宮駅)ではないでしょうか。
仰る通り、長門一ノ宮が正しい表記ですね。訂正文を概要欄に記載させていただきます。ご指摘ありがとうございました。
昭和49年に大学入学時に実家から下宿まで荷物運ぶために当時周遊券というのがあり、広島と静岡を5往復しました。素晴らしい急行列車でしたし、他の大学生とも列車内で友達もできて楽しかったです。もう一度復活してくれたらなと思います。先頭の機関車はEF58電気機関車で駅に停車後の出発の時の衝撃がたまりませんでした。
この時刻と付帯情報が、車掌さんの携帯している時刻表のように見えてきて、どのような用語で放送していたのかなと思うとワクワクしてきます。
主要駅の時刻表も良いですが、列車単体に焦点を当てての企画も良いですね。巡回列車や分割併合の列車も見てみたいです。
お疲れ様です。実際に旅している気分になれて大変素晴らしい動画です。有り難うございます。そこで東京から西鹿児島まで乗り通した場合の料金について勝手に調べてみました。一番安い2等座席車で乗り通すと、2等運賃2550円+2等急行料金300円の合計2850円。贅沢して1等C寝台下段で乗り通すと、1等運賃4680円+1等急行料金660円+1等C寝台下段料金1430円の合計6770円でした。当時の1等C寝台はロングシートタイプでクーラーも無かったと聞いています。また下り「高千穂」の1等寝台車は大分止まりでその先は座席車に移動する必要があったようです。29時間も乗車するのは1等車でも大変辛いことだったでしょう。なお当時の時刻表を見ると上り東京行「高千穂」には門司から筑豊本線飯塚発の2等座席車が東京まで1両併結されたようです。下りは門司止めです。長文失礼しました。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。嬉しいお言葉ありがとうございます。1等C寝台の料金の高さに驚きです。2倍以上の差があったのですね。当時の初任給が約2万円と言われていますから、かなりの高額だったことがわかります。編成についても大変勉強になりました。詳細な情報をコメントしていただき、ありがとうございます。
この企画めちゃくちゃいいですね!本当に列車に乗った気持ちになれます!またやってください!
いつもご視聴とコメントありがとうございます。嬉しいお言葉ありがとうございます。本当に乗った気持ちになれるような動画を作成する事がチャンネル開設時からの目標の1つでしたので、大変嬉しいです。
かつての日本海縦貫した特急白鳥+信越白鳥とか、面白いかもしれませんね。あと、大阪から福知山線→山陰本線をほぼ完走して博多に行く、特急まつかぜとか。
新しい、列車に光を当てたバージョンですね❣️いつも精力的に作成有難うございます❤❤❤古い時刻表での机上旅は、空想が膨らみますもん🙌🙌🙌
いつもご視聴とコメントありがとうございます。嬉しいお言葉ありがとうございます。時刻表での机上旅は面白いですよね。紙の時刻表にしか存在しない魅力の1つだと思います。
うわ~ッ!、凄いリサーチ力😯1975年に廃止になった編成について、よくここまで調べはりましたね♪ともやん君様のこれまでの1つの駅に特化した時刻表はそれはそれで楽しい企画ですが、1つの編成に特化した時刻表も凄い楽しいです♪私もこの急行への憧れは強くて、少年の頃によく時刻表の旅をしてました。途中の「EF-58が牽引する客車を見てみたかったです」のくだりについて、私も「高千穂」に乗ったことはありませんが、実は小学生の頃に1泊2日の修学旅行でお伊勢さん参りをしたんですが、その際に乗ったのがEF58が牽引する団体専用列車でした。団体専用とはいえ国鉄三ノ宮から国鉄鳥羽までの激レアな直行便なんて見たことないので、修学旅行本体より激レアな直行便の方にワクワクしてた記憶があります。帰りも同じくEF58牽引の直行便だったのですが、帰りは前が見えないほどの土砂降りの大雨のせいで、客車の窓の隙間から雨粒がポタポタ垂れてたのを覚えてます。三ノ宮から鳥羽まで直行便とはいえ、通常ダイヤの隙間を縫って走るため、のろのろ運転+いろんな駅で時間調整停車があり、行きは6時間で帰りは豪雨のため8時間もかかった記憶もあります。それと、EF58牽引の急行「屋久島」にも乗車したことがあります。私は神戸っ子なんですが私の父は岡山出身でして、岡山の和気から三ノ宮までの約1時間半ほどの短い距離でしたが「屋久島」牽引のEF58のエンジン音を堪能しました。てことで、また楽しい時刻表の旅で脳活したいので、楽しみに待ってま~す♪
ちなみに廃止直前にはグリーン車はなく普通車も10系ではなくて、スハ43系だった。10系の陳腐化がすすんでいたためです。特にオロ11型は冷房化による低屋根構造や、下降窓の影響で陳腐化が酷かったそうです。
国鉄という全国規模のネットワークサービスが遺憾無く発揮されていた時代。
EF58牽引急行[桜島,高千穂]は1975年廃止直前に東京ミニ周遊券🎫で大阪→東京まで乗車した。下りは東京10:00発だったと記憶する。当時大阪に住んでおり夜の大阪駅には九州方面の寝台特急,急行(10系客車)が頻発しており急行[桜島][雲仙]は[💺🍀🛏️🍴]が連結されフルセット編成でした😂
寝台特急富士も1日に2本走ってましたのでどっかで2回すれ違っていましたが急行高千穂も2回どっかですれ違いますね。急行の食堂車というものも体験してみたかったですね
ご視聴とコメントありがとうございます。仰る通りで2回すれ違っています。食堂車と言えば特急のイメージが強いですから、急行の食堂車も是非体験してみたかったですね。
@@tomoyankun さん当時の夜行急行の食堂車🍴🚄は、「高千穂」に連結されていた「オシ17」(1972年の「北陸トンネル火災」で事実上全廃)「マシ35」「マシ29」「スシ48」等がありましたね。
いや、3回だよ😉
距離でも時間でも日本最長の急行でしたっけロマン溢れますなあ(遠い目)
いつもご視聴とコメントありがとうございます。距離、時間ともに日本最長急行でしたね。食堂車と寝台車が連結されていた頃の『高千穂』に乗車してみたかったです。
当時飛行機とか乗りようがなかった時代だからこそそう思うだけで、LCCのある現代の人がこの列車を乗り通すって罰ゲームでしかないと思います。1等寝台(が連結されてたかどうかは知らないが)に乗れるならともかく、庶民が利用したであろう2等席(今の普通車)ならなおさらです。
運行時間に関しては終戦後引き上げ列車で九州の南風崎から東京までのほうが時間的にはかかっていたがこれは特殊な例です。
流れる景色を眺めながらリズミカルな走行音を聞くのは何よりの楽しみ。深夜走行の暗い窓の景色ですら楽しくて長距離列車旅の醍醐味を味わえますね。
お疲れ様でした。これも素晴らしい内容で超高評価です。凄い夜行急行ですね。右サイドの説明も参考・楽しめます。宗太郎付近で24時間経過、感動します。毎回楽しみにしています。作製大変でしょうが、よろしくお願いします。
大変懐かしい列車名を見てびっくりしました。思わずあまりに楽しく懐かしくてチャンネル登録させて頂きました!当時の特急急行にはほとんど食堂車ビュッフェが連結されて旅の楽しみでもありました。味も大変美味しかった記憶があります。当時の急行「桜島」には食堂車が連結されておりいつも珍しく眺めておりました。時刻表に載るあの食堂車やビュッフェのマークが本当に懐かしいです!これからもチャンネル楽しみにしております!
1964年の日豊本線宮崎地区は高速化・複線化・電化に向けて期成会を立ち上げ、また、沿線人口を増やすべく私立高校や専門学校を誘致したり駅周辺に移転等を行っていました。今でこそ日向住吉~宮崎・南宮崎駅間は通学需要が高く乗客数も多いのですが、この当時に頑張って増やしたからこそやと思います。
尾道糸崎連続停車というのがすごい。呉線方面の急行音戸に接続してたのかあ
ご視聴とコメントありがとうございます。この時代の急行は一部を除き尾道、糸崎と連続停車していました。すごいですね。急行音戸は大阪駅23:30発、急行高千穂は大阪駅23:00発でしたので、高千穂の後ろをついてきているような感じでした。ですので、正確に言うと、接続と言えないかもしれませんね。
急行音戸は寝台列車ですので乗り換える乗客はほぼいなかったのではないか?どうしても呉線沿線に行きたい乗客はその後の準急ななうらに乗るのではないか?ななうらも京都始発ですが!
乗換駅で1時間、2時間待たされて、更にその列車で終点まで行くのに何時間もかかるなんて50年前の列車の旅は好きな人はとことんハマるんだろうな。
主要駅には待合室がごく普通にありました。さらにはホームに洗面台が置かれていた駅も。
東海道・山陽そして日豊本線を経由し、鹿児島県に至る史上再長距離の定期旅客列車(多分)。距離と時間が長い分、目的地に着く頃には疲れ果てそうですね
いつもご視聴とコメントありがとうございます。一時の特急富士と並んで日本最長距離の列車でしたね。座席車に乗っていたとしたら、乗り通した後のお尻は大変なことになっていそうです。
@@tomoyankun 東京ー西鹿児島(現:鹿児島中央)迄走り通すのは、座席車の一部(寝台車・食堂車🍴🚄等は大分で開放)ですからね。
それでも大分迄一日…!
東京~大阪が7時間なのですね。特急こだま等と大差ないですね!それに食堂車もあったとは…大阪に23時だと今みたいにホームライナーがわりに出来たもしれませんね。
鹿児島住みのジジイです子供のころ、宮崎のじいさんとこに行くのに何度か乗りました。当時はなんとも思わなかったのですが、あのボックス席に首都圏や関西圏から乗って来たと思うと、昔の人は忍耐力あったなぁと思いますよ
これだけの距離と時間を要するのに寝台車の数の少ない事!当時の乗客は本当に大変だったでしょうね。。日豊本線入ってからはこまめに主要駅に停まってて良いですね。新幹線開業前は夜行列車の数も多くて旅情を誘います。
それほどこの急行列車のニーズが高かったこともあるのでしょう。質よりもいかに大量の乗客を捌くかが求められていました。この時代はドアを手で開け閉めしていたことから小さな駅での交換待ちの時に停車扱いとした駅もありました。下りは停車、上りは通過ということもしばしばでした。
高千穂もロングランですが、乗り継ぎで各地に普通列車でロングランする列車が多かった気がします。時代は変わってしまいました・・・。
大変楽しませてもらいました。いい企画だと思います。急行霧島の乗車記を”阿呆列車”で内田百閒先生が記していました。随分長い乗車時間だと思って読んでいましたが、さらに長い急行があるのですな。
走行距離で後のトワイライトエクスプレスをも上回る偉大なる列車だったんですね。今の世なら恐らく乗車記録をアップするRUclipsrもいたでしょう。
東京~西鹿児島(日豊本線経由)急行高千穂 東京14時35分発西鹿児島翌日19時50分着所要時間29時間15分特急富士東京18時発西鹿児島翌日18時26分着(1978年10月当時)24時間超えの走行は壮大な旅路だったと思う
いつもご視聴とコメントありがとうございます。「特急富士」であったとしても24時間を超えてしまうことに、その距離の長さを感じますね。
@@tomoyankun さん当時は日豊本線が全線非電化で主に牽引機が「DF50」だった事を考えると、その位の時間になりますからね。
昭和31年11月19日:「高千穂」は併結を取りやめて全区間単独運転となり、運行距離を延長して東京 - 西鹿児島間の運行とする。同時に食堂車を連結。また、列車愛称も「高千穂」と漢字表記とする。この時から日本最長距離を走る列車となり、全区間走破には31時間28分を要した。しかし東京駅・大阪駅から西鹿児島駅へは到達時分の短い鹿児島本線経由が一般的であったため、同列車を全区間乗り通す客はそれほどいなかったといわれている。
@@juuxlb9401 さんそれまでは、「玄海」(東京~博多)と門司迄併結運転だっっけ。
Wikipediaの題名は寝台特急の「富士」
自宅が帖佐駅近くでした。「高千穂号」がディーゼル機関車で、ときには蒸気機関車で引かれて、帖佐駅を通過するのが、昨日の様に感じます。上京して、年に一回鹿児島に帰るが楽しみでした。
ご視聴とコメントありがとうございます。素敵な思い出ですね。当時の思い出を思い出すきっかけになったことが大変嬉しいです。
チャンネル登録後に視た初めてのパターンで新鮮でした👍。国道1.2.10号沿いの運行ですので、バックミュージックの切り替えタイミングはそこかと。全3曲♪。
いつもありがとうございます。29時間というのは本当に長旅だったことと思います。様々な方の想いを乗せて走っていたことでしょう。昼間は景色を見たり本を読んだり同じボックスでの語り合いがあったことと想像できます。そして発車するときの汽笛や連結器のガシャンという音や揺れも旅のひとときでした。さらには駅弁の立ち売り。動画を見て当時の光景が思い浮かびます。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。嬉しいお言葉ありがとうございます。本当に乗った気持ちになれるような動画を作成する事がチャンネル開設時からの目標の1つでしたので、大変嬉しいです。空調はありませんし、快適な車両とは言えないですが、「鉄道旅」の良さがそこにはあったのでしょうね。
家の前が東海道線が通ってたのでEF 58牽引の九州方面行きを眺めてました。独特のジョイント音でした。鹿児島行きが西鹿児島行きになったのもこの頃だったような思い出です♪
これは楽しい企画ですね。もし自分が乗ってたらと思うと、どこでギブアップしたか気になります(笑)通過駅全部や乗り換え、駅弁まで載ってるのは凄すぎます。お疲れ様でした。そしてありがとうございます。
私の夜行列車の思い出は、「ヨン・サン・トウ」直前の8月、家族で東京に行った際に乗車した「急行 夕月(改正後の日南)」です。B寝台の冷房で冷えた梯子階段の冷たさが、50年近く経過した現在も強烈な印象として残っています。新大阪で新幹線に乗り換えたのですが、それは記憶に残っていません。
大変ご乗車、御編集お疲れ様です。戸塚が無いと思ってwiki見たら納得でした。湯河原や三島に止まらないのは強いですね。今は飛行機、新幹線と言った速度重視の交通機が主流ですが、鈍行列車や長距離列車による旅という本当の旅の楽しさを何処かに捨ててしまったことは大きな誤ちをしているようにも思えます。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。私も同じで、知っている駅名が無いことに気づいて違和感を覚えて調べてみると「なるほど」と思うことが多かったです。「旅」の魅力は、目的地に行って楽しむだけではなく、その道中、過程にも存在していますよね。
おそらく湯河原や三島に止めなかったのは遠近分離のためだと思います。東京から山陽や九州への客だけでなく大阪までの客とかも乗せて満員だった状態で湯河原までの客とか乗せる余裕がなかったので、湯河原とかの客には準急東海へどうぞってことだと思います。
三島はこの当時急行は停車しておらず沼津が停車駅だった。三島は新幹線が1969年4月に開業するまではあまり有名な都市でもなくて沼津が鉄道の要所でした。新幹線も沼津に停車したかったがカーブがきつくて断念した経緯がある。
米原にも大津にも停まらないので滋賀県内全スルー…
大津は京都に近いし、大阪ひだも通過するから理解できるのですが、当時の電車特急(つばめ等)の中には米原停車の列車があったのに停車しないのは不思議ですね。北陸連絡はあまり考えられてなかったのでは?
東京〜名古屋も今や高速バスで5時間とこの時代の急行列車と変わらず。九州日豊本線沿いも東九州道が全通、都城〜志布志も高速道路が来年には繋がり、当時の鉄道以上にスムーズに移動が出来る様になっていく。昭和2.3.40年代の壮大な列車や特急に思いを馳せたり、高速道路網の発展している現代の高速バスを比べたりと色々できて非常に面白いです。昭和3.40年代の鉄道より早く移動出来る公共交通機関のダイヤを見ると、こういうところに時の流れを感じます。
ご視聴とコメントありがとうございます。高速道路網がどんどん出来上がっていきますね。便利になっていく反面、鉄道にとっては逆風になることは、個人的にはさみしい気持ちもありますね。嬉しいお言葉ありがとうございます。これからも時刻表の魅力をお伝えできる動画を作成してまいります。
これを見ると改めて鉄道の速さの進化を思い浮かべられますね
夏休みに飯田線沿いの母の実家に行く時、豊橋までよく乗りました。窓全開にしていて、沼津過ぎて吉原あたりかな、製紙工場の強烈なにおいにむせかえっていたのを思い出します。乗降扉が開きっぱなしで走り、ペダル踏んでトイレの水を流すと線路が見えた客車。これほどロマンを感じる列車が他にあるでしょうか。
我が国では沿線での黄害問題があり、踊り子号が誕生した頃の東海道線でも東京~横浜はトイレを使うなと言う掲示がありましたね。国鉄がJRになる頃にはタンク式で車両基地で抜き取るのが当たり前になりました。その基地のし尿処理設備の建設の反対運動が行われたところもありますが、、その他にも外に出さないように様々な工夫が施されました。日本の環境技術の発展を物語るものです。2010年にフランスの客車列車で下に線路が見える類いのトイレを見たことがあります。これには驚きました。
特急並みの停車駅ですね九州の駅には結構停車しますね特に立石停車には驚きでした立石峠越えの補完機関車の切り離しの停車だったのでしょうか?この当時は峠越えの線路(単線)の使用だったのでしょうか?現在は下り線はトンネル上り線は峠下りで使用されていますが?次回はどの列車なのでしょうか?期待して待ってます
宮島口「うえの」のあなごめし、現在は1000円位はするのに1964年頃は100円で販売されていたのですね。驚きました。
syoukodouさん当時の4大卒男子の初任給が3万円余りの時代で現在は20万円前後と考えると、大体の目安は付くと思いますよ。
@@原田寛-e3uしかも今のような大卒が普通の時代でなく、庶民が大学なんて行くという概念すらなく小卒中卒が当たり前の時代だったのだから、その3万円すらもらえない家庭が大半だと思うので、百円ってのも食費にするには到底できなかったと思います。
@@DJKotony さん所謂日雇い労務者の日給が254円と言われた時代ですからね。
@@DJKotonyさん 当時の国立大学の授業料は年間12,000円(現在の標準額は535,800円)。所謂「中流」と言われていた家庭でも、子供が3人4人いるのが当たり前。高校までが精一杯で、ましてや私大なんてとても無理だったと聞きますね。
それにしても長い間「西鹿児島」駅…先に作られた鹿児島駅は、昔も今も街外れ
三島、掛川、米原、西明石、相生、三原と現在の新幹線停車駅を通過している。当時の急行は偉かった。
実は東海道新幹線の三島駅も本来予定ではなく、静岡県東部の代表駅である「沼津」に駅をつくりたかったのです。しかし、沼津は地盤が弱いので三島に。
昭和36年3月、6歳の時初めて上京した帰り、母と二人で名古屋まで乗りました。2等車でした。前の席に荷物を沢山持った初老のおじさんが座りました。おじさんは九州まで行くのでした。横浜に停車すると、おじさんは窓を開け、お弁当を二つ買いました。横浜を出ると、おじさんは、お弁当の蓋を開け、美味しそうに食べ始めました。いい匂いがしていました。私はじっとそれを見ていましたが、するとおじさんが、「僕も食べたいかい?」と言って、もう一つのお弁当を渡してくれました。母が丁重にお礼を言い、頂くことになりました。それは、横浜名物の焼売弁当でした。ほんとに美味しかった。名古屋まで、おじさんとお喋りをしながらの楽しい旅になりました。今はもうそんな出会いが出来ない鉄道の旅となってしまいました。急行高千穂号、懐かしい、いい列車でした。あんな旅、またできたらなあと思います。
普通に窓を上げるだけ降車しなくてもお弁当買える?😳
@@晏华-n6k国鉄時代の客車は窓を開ける事が出来たそれは非冷房車だったから窓を開けて駅弁を買う事が出来たのです
昔は駅のホームに駅弁売りのおじさんが立って、沢山のお弁当を抱えて売っていました。停車中に急いでそれを買うのですが、とても便利でしたよは。今ではそんな光景失くなってしまいました。ちょっと寂しいです。@@晏华-n6k
大阪〜乗車する場合、前もってコンビニでビール、つまみ、朝食用の缶コーヒー、パン、おにぎりを買います。今なら(笑)
当時の庶民も前もって兵糧を携えてたか、停車駅が長い駅で立ち食いそばを呑んでたみたいですよ。食堂車どころか駅弁ですら当時の庶民には高嶺の花。庶民が1日働いて数百円の時代で駅弁が百円とかしてたようだし。
3:44 豊橋駅における飯田線の乗り換え列車は、正しくは三河大野行き、列車番号は639Mです。
この時代の[高千穂]の編成は下り方先頭の荷物車の後、1号車から14号車までの15両という長大編成で、そのうち東京~西鹿児島間を全線走破するのは荷物車、1号車1等指定席、2号車1等自由席、6号車2等寝台、7~10号車2等自由席の8両のみで、2等自由席の11・12号車2両は東京~宮崎間、3号車1等寝台C、4号車2等寝台、5号車食堂車、13号車2等自由席の計4両が東京~大分間の運転でした。しかし…15号車の2等自由席のみは下りは東京→門司間の運転ですが、上りは…今ではほぼあり得ない様な実に奇妙な運用が組まれており、[高千穂]として連結されるのは東京←門司間なのですが、上りの始発駅は何と[高千穂]の運転経路とは全く無縁の飯塚発となっていて、[高千穂]に連結されるまでの門司←飯塚間は、京都~熊本間を筑豊本線経由で運転する上り急行[天草]に途中経路の飯塚から連結されて門司に22:11(門司22:26発)にやって来て、門司で切り離して22:07に先着している[高千穂]に再度連結した後、[天草]より一足早く22:20に門司を発車し東京へ向かう…というスタイルでした。1両単位での増解結運用が可能な、如何にも国鉄旧形客車らしい組成の姿でしたね。
ゴハチがけん引していたんですね。自分が物心ついたときにはもうゴハチも一線を退いてはいましたがごく一部貨物けん引などをしていたのを覚えています。それと、実は実際に運転したこともあったりします。今はなき浜松機関区のイベントで、現在リニア鉄道館に所蔵されている157号機をわずか450mの往復でしたが(笑)ロイヤルエンジンのオリエントエクスプレスけん引など、EF58は小生にとって思い入れの深い機関車です。すみません、少し話がズレました・・・
まだ山陽本線広島と小郡(現・新山口駅)間は非電化だったので広島からはC62型が多分牽引していたと思います。新幹線新大阪開業時に全線電化されていますので、この一ヶ月後のことです。
ワイは逆に、運転はないが、紀勢本線で牽かれた事はある😉
米原や、大津すら通過してしまうスパルタンな😳かっこええ🥰
ゴウマルサンダイヤ改正で廃止されるまで米原駅は通貨でしたが、大津駅は後に停車しました。
戦後の特急つばめ誕生の頃の蒸気機関車牽引のときには上り急行高千穂が大津駅てつばめに追い抜かれていたので、停車駅でした。その後ヨンサントウダイヤ改正では大津駅は停車駅になっています。
30時間近くもの運行時間に改めて驚きました、九州内を走っていた時に翌日分の下り『高千穂』が発車しているとは……😅東海道本線・山陽本線内を走行中には停車駅がそんなに多くないのに対し日豊本線を走行中については停車駅がわりと多く感じられました。多分接続を考えてのことだろうと思うのですが、今では聞きなれないローカル線もあったので昔は九州にも多くのローカル線があったことに驚きです😅
いつもご視聴とコメントありがとうございます。30時間の列車旅、一度体験してみたいです。私も同感で、日豊線に入った途端にこまめに停車していますね。接続列車も多くなり、地域輸送の役割も担っていたのでしょうね。
子供の頃急行霧島に乗ったことがあります。もちろんEF58でした。
寝台車ではなく、43系充当の普通車だったらかなりの地獄旅だったでしょうね。当時はそれがスタンダードだったのかも知れませんが、上野から仙台まで一度だけ客車鈍行を乗り通した時に、私は乗り慣れていた113系ボックスシートと同じだろうと高を括っていたことを後悔したことがあります。ましてや2日間となったら…。
18キッパーだった昭和時代、113系でも後期のシートピッチ改善車に当たると嬉しかったな。
時刻表で列車の運行するのを感じることがとっても楽しいです
いつもご視聴とコメントありがとうございます。嬉しいお言葉ありがとうございます。本当に乗った気持ちになれるような楽しみ方ができるところも、時刻表の魅力の1つですね。
超豪華なクルーズトレインも良いが、スマホに追われ、仕事に追われ、世知辛いギスギスした世の中になってしまった。JRさん、採算は取れねぇかもしれねぇ。だがよ。ふらっと乗れる自由席のついた夜行列車、また走らせてくんねぇかな時間を忘れる。そんな空間もあっていいじゃんちょいちょい拝見させていただいてました。登録させていただきました
当時はまだ寝台車がまだまだ高嶺の花の時代でしたよねだから硬い座席車に揺られて東京からだと西鹿児島までかなりハードだったと思います。自分は大阪住みでしたがまだ幼児の頃、家族で母の実家のある宮崎に帰省するときに高千穂を利用したと思います、大阪が23時発で宮崎が17時過ぎ子供連れで硬いボックスシート。親はかなりきつかったと思います
この急行が止まる駅の近くに住んでいたのですが、行先が「西鹿児島」。子供の頃は「西鹿島」行き(国鉄二俣線・現天竜浜名湖鉄道、および遠州鉄道)だと思ってました。距離と時間全然違いますがな。。。 当時はEF58沢山見ました。この列車は最後まで(桜島と併結運転になっても)乗れなかったのが悔いの残る所です。東海道新幹線開業以降も東京から走ってましたからね。
ちくわ弁当がきになりすぎる。
山陽新幹線博多開業を控えた昭和49年の夏か秋頃に、桜島と併結されていた高千穂号の写真を、国鉄豊橋駅で撮影しました。鉄道ジャーナルで同乗ルボ取材記事も読んだ。東海道本線では、富士、尾張一宮、大垣、米原、大津は通過してます。(岐阜から京都間は無停車は特急並み❗)新垂井の駅名も懐かしい。寝台特急の「富士」号は、新幹線が開業した1964年10月1日のダイヤ改正で、東京〜大分間に登場。翌年の1965年10月1日のダイヤ改正で、大分〜西鹿児島まで運転区間を延長しました。 4:53
この頃大津駅は停車しています。
寝台特急富士は寝台特急みずほの大分編成が独立した格好ですが、1年後には西鹿児島まで延長された。しかしゴウゴウトウダイヤ改正では宮崎までに短縮されている。
この時から50数年も経過してるのに駅がほぼ変わらないのすげぇ
北海道みたくかそかしてないですからね。北海道には消えた駅も多いですが。
急行高千穂、1975年まで走ってたんですね。見てみたかった。
1964年9月の急行「高千穂」は、上りが興味深い運行をしてますね。まず熊本発筑豊本線経由京都行き急行「天草」が、飯塚駅で機関車次位に座席車を1両増結。門司駅にて飯塚からの座席車を解結、4分前に先着していた上り急行「高千穂」に連結して東京に直通します。現在では考えられない運用ですが、当時は需要があったのですね。
急行なのに特急並に停車駅が少ないですネ。桜島併結時代は記憶しておりますが、この頃の(高千穂)は清水 大垣 米原 大津 通過には驚きです!
急行「高千穂」🗼東京 → 横浜 → 小田原⚡️→ 熱海⛵️→ 沼津 → 🍊静岡 → 浜松🌲→ 豊橋🌉→ 🐔名古屋🏯 → 岐阜 → 🌲京都 → 🐙大阪 → 🎅三ノ宮🛩️→⚡️神戸 🚪→ 👸姫路 → 🍑岡山 → 倉敷 → 🦺福山 → 尾道 →🧵糸崎 → 🦪広島🏝️→ 岩国 → 🉐徳山🗻防府 → 小郡 → 西宇部 → 🍞厚狭 → 下関 → 門司 → 小倉🍞 → 行橋🌉→ 宇島🏝️→ 中津 → 宇佐 → 🐙立石 → 🌲杵築 → ♨️別府 → 大分 → 臼杵 → 津久見🛩️ → 佐伯 → 延岡 → 🍊南延岡 → 🔥日向市 → 高鍋🍲 → 🍁広瀬 → 🍊宮崎 → 🍊南宮崎 → 🍊都城🏯→ 🍊西都城🏯→ 🏝️霧島神宮⚡️→ 隼人 → 🦌鹿児島🏝️→ 🦌西鹿児島 🍀
すごく面白いです!長距離鈍行なんかも見てみたいです……作るの大変そうだなぁ(苦笑)気長に楽しみにしてます!
作り方がわかれば、自分も作ってみたいのですが。できましたら特急「富士」「まつかぜ(京都-博多)」、急行「日本海」でお願いしたいです。可能で有れば「白鳥(大阪-上野)」も。
ご視聴とコメントありがとうございます。どの列車も大変面白そうですね。白鳥の上野編成は意外性もあって面白そうです。リクエストありがとうございます。
日豊本線の都農が都濃になっています…
いやーお疲れ様ですなw 自分の生まれるチョイと前の’64(昭和39)、国鉄が最後の華やかな時代を彩ってた頃ですか・・。ブルトレ、国鉄末期世代の自分はこういった旧客長距離夜行、まして食堂車つきなんて寸でのところで手が届かなかった歯がゆさがあるんですよw 今も「旅」というのは日本と言う国土をしっかり噛みしめ快適とは言えずとも時間をかけて堪能したいものです。ちなみに供食の値段だけど今は表示価格、当時の5~6倍くらいですかね。3:00 6:20
この頃ですとまだ広島と小郡の間は非電化で大型の蒸気機関車C62型や、D52型が最後の活躍をしていました。急行高千穂も広島からはSL牽引で多分C62型が下関まで牽引していたのではないか?山陽本線全線電化は新幹線新大阪開業と同時でした。
大船、富士、大垣、米原、大津通過…もう特別急行ですね。
一部ですが、特急白鳥とつばめは米原に停車する。しかし東京発着の長距離客車急行は米原はほとんど通過している。東京発着の153系電車急行は米原か、彦根の選択停車になっています。
新しい手ですね。これは見ていて実に楽しいです!この流れで、ヨン・サン・トオ時代以前の、北海道の雑念とした準急・急行を是非、お願い致します。「まりも(昼・夜行)→ていね→まりも(夜行)」とか、なかでも「たるまえ」が見たいです。ちょっと「たるまえ」って、マニアくさいですかねぇ。「たるまえ」好きなんだけどなァ。
ヨンサントウダイヤ改正で急行すずらん上下6号になりましたね!
3:54 1等のC寝台は、気になりますね❤
さよさわるんるんさん1等寝台Cは主に「マロネ41」(戦後「進駐軍専用車」→後の急行「西海」「十和田」向けに造られたプルマン(開放型寝台)車両)ですね。
当時の主力1等B寝台(オロネ10など)と異なり、昼間は下段部分にロングシートのように座る形態でした。もはや「高千穂」が最期の活躍列車状態。
@@akiratan さん元々「進駐軍専用車」時代は、負傷兵を搬送するための「マハ41」として運用されていた事も有りました。
別のこうでも述べましたが、正確にはマロネ29型ですね!
なんか停車駅で窓を開けて買える駅弁も美味そうだ😍😍
おそらく通して東京から鹿児島まで乗車した乗客はそんなに多くなかったかもしれない。急行なので、区間、区間の利用も多かったに違いないですね。ただ今と違って当時は飛行機での移動が高額で贅沢だったので、東京と九州方面を結ぶ貴重な移動手段だったと思います。編集お疲れ様です。
あと、当時は沖縄返還前で、沖縄から東京・大阪行くには、まず鹿児島行く船🚢乗って、西鹿児島で切符🎫買う。沖縄では国鉄の切符は売ってなかった。そして、「はやぶさ」等は人気で満席🈵の場合があり、こうした列車が重宝された😉
10:40 こんな深夜に普通列車との接続があるとは驚き…!
実際に高千穂に乗ったことがありますが、小学校1年から2年になる時の春休み。そう考えると1966年かな?午前中東京駅発だったと記憶しています。窓が開く寝台車でした。窓から海をみていた場面が記憶にあります。おそらく根府川あたりだったのかな?
スマホで検索できるようになってから時刻表買わなくなったのでレ印がなんか懐かしいです。四国生まれとしては岡山で接続あるのは涙がちょちょきれます(( ;∀;)
「高千穂」なのに、高千穂線との接続が無いと思ったら、当時は日之影線だったんですね。
他にも急行筑紫という列車がありますが、急行高千穂と違って、鹿児島本線経由ですが、東京を午後に発車するため、関西まで1泊、そして鹿児島本線で1泊…と2泊3日の運行となるらしいですね。
この時点では名古屋始発になっている急行さつまは2夜行運行で東海道区間と鹿児島本線が夜行運転だった列車もあった。
日豊本線の「東都農」駅、「都農」駅ですね。
立石に停車したのは、峠越えの補機の関係でしょうか。
急行「高千穂」 東京 → 横浜 → 小田原 →熱海 → 沼津 → 静岡 → 浜松 → 豊橋 → 名古屋 → 岐阜 → 京都 → 大阪 → 三ノ宮 → 神戸 → 姫路 → 岡山 → 倉敷 → 福山 → 尾道 →糸崎 → 広島 → 岩国 → 徳山 → 防府 → 小郡(新山口) → 西宇部 → 厚狭 → 下関 → 門司 → 行橋 → 宇島 → 中津 → 宇佐 → 立石 → 杵築 → 別府 → 大分 → 臼杵 → 津久見 → 佐伯 → 延岡 → 南延岡 → 日向市 → 高鍋 → 広瀬 → 宮崎 → 南宮崎 → 都城 → 西都城 → 霧島神宮 → 隼人 →鹿児島 → 西鹿児島 😮
西宇部(宇部)広瀬(佐土原)西鹿児島(鹿児島中央)
列車毎の時刻表の旅ですか…。今までとは趣向を変えましたね。リクエストとして、平成前期辺りに存在した、熱海・米原間のロングラン各停をお願い致します。
自分はこの列車、熱海から乗り通しました。車両は113系の3両編成でした。先頭車のどちらかがモハ→クモハの改造車でした。東京から熱海までは185系の普通で、米原からは117系の新快速で大阪にいきました。
思ったこと(1)29時間も走るのに寝台車は3両で座席車が10両、しかもそのうち自由席車が9両ということは、長距離利用より区間利用の方が多かったということ?(2)途中停車時間が意外に短い。駅での立ち売りや食堂車への食材の積み込みは忙しかったことだろう(3)駅弁の価格が100円から200円。これを単純に7倍すると今の感覚に合いそう。食堂車のメニューに適用すると、カレーライス 700円スパゲッティ 1050円幕の内 1400円コールミート定食 2450-1750円シチュー定食 2450円ビーフステーキ定食 4200-2800円
当時の指定料金や駅弁が百円だと聞いたことがありますが、大卒が稀少だった時代の大卒初任給が1万円ほどの時代において(つまり小卒中卒が多数派であった庶民はもっと少ない給料で一家を養ったでしょう。)その百円すら惜しくなるのは当然のことで、たとえ鹿児島まで乗り通すにも自由席に乗って立席覚悟で臨んだと思います。掛け算の九九もわからないようなアホンダラがイッチョマエに学士様になってそれなりの名が通った会社の正社員様になれる現代とは全く違うってことをご理解ください。
その通りで寝台車なんて庶民には料金が高すぎて手が出せる時代ではなかったのです。今の感覚でいうと飛行機のファーストクラスくらいか?寝台車が大衆になるのはヨンサントウ以降くらいで583系が誕生した頃からですね!だから1等車なんてとてもとても高嶺の華で政治家や、芸能人などほんのひとにぎりです。何しろ1等料金は2等の倍に2割の通行税がかかっていて特急や、急行料金も1等料金で別料金だった。
停車駅から見ると特別急行ですね、
当たり前だけど、新倉敷が玉島、西広島が己斐、新下関が長門一ノ宮になってる…他にも現在と違う駅名のとこあるんかな?
岩淵→富士川神足→長岡京周防富田→新南陽小郡→新山口西宇部→宇部(当時は今の宇部新川が宇部でした)
広瀬ってどこやと思ったら佐土原だった。
決定的な違いは「新大阪」がないこと......
おー、大学生だった親父がちょうどこの頃、急行高千穂の自由席で帰省していた話をしてました。1人一本どぶろくの一升瓶を買って固いボックス席に乗ってた話や、一度、きしめん買おうとして名古屋駅で降りたら戻り遅れて翌日、同乗の大分・宮崎方面の仲間らが降りるべき駅(中津)に荷物だけ置いて行ってくれたなんて思い出も。この素晴らしい動画を親父にも見せてあげたかった。ありがとうございました!
私は1970年の夏に利用しました。確か11時東京発だったかな?自由席で勿論満席冷房無しボックス席の相方は若いお母さんと小学生の娘さん二人、私は深夜の広島糸崎で下車母子3人に手を振ってお別れ、確か大分に向かうとの記憶、53年前です。幼い女の子も孫が居るかもしれません。懐かしくも遠い出来事に成りました。私はそのまま糸崎のホームのベンチで朝まで仮眠、しかしながら夜行列車が多くほとんど寝れませんでした。ましてやC62牽引の列車等が来たら凄い振動でした。翌日に呉線の大型蒸気を見るべく呉行きの列車に乗り呉線最後の蒸気機関車を撮影しました。若き学生時代の思い出です。高千穂の記憶でした。
高千穂の記憶?えーと九州の?呉って広島ですよね?
いやー自由席、満員、客車の硬い席、きついわー、見知らぬ人と話せるのは立派、私は6歳です。
@@bdhjortwbexjjw呉は九州ではなく中国地方にある地名ですよ
昭和30年生まれです。
チョット先輩の旅行記を
拝見させていただきました。
1870年というとグリーン車も含めて全車自由席でした。その年の10月ダイヤ改正でグリーン車は全車指定席になっている。普通車は全車自由席のままです。ヨンゴウトウダイヤ改正ではグリーン車は全車指定席か、全車自由席のどちらかになっている。それまでの一部指定席制度がなくなった。
すみません!1970年の間違いでした。大阪万博の年でどの列車もいつも以上に混雑していました。
懐かしいなぁ、学生時代に乗りましたよ!
当時の大学生の旅行なんて、こういう安い列車の旅でしたから。青春18キップはなかった。
ご視聴とコメントありがとうございます。
高千穂に乗車した事があるのですね。移動手段が現在よりも多くないですから、繁忙期はかなりの混雑をしていたのでしょうね。
この列車に乗っていると日没を2回見るのかと思うと改めて壮大さを実感します。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
仰る通り日没を2回と考えると、いかに長時間の運転であるかがわかりますね。最後まで乗り通した人たちとは仲間意識ができそうですね。
「ななつ星 in 九州」と違って、貴重な移動手段だったわけですね
どれほどの人が、窮屈な思いをして2日間も乗り通したことでしょう
新幹線開業の直前で、まだ新大阪駅が無いです。
名古屋の金山駅も無いですね。
当時の金山駅は、中央線の専用駅でした。
戸塚も瀬田もないです🌀
@@原田寛-e3u昔を思い出すと
元気が出てきますね♪
@@busjack1628様
戸塚駅はありましたが、当時は横須賀線の電車のみ停車していました。
@@hc-ir2dr
ありがとうございます🙇♂️
保土ヶ谷みたいな感じですね💦
この時代に生まれていたら東京から宮崎まで帰省で使ってみたかったな
人生で一番楽しかった時代を過ごした場所に戻りたくなってきます。
面白かったのでチャンネル登録しました。
チャンネル登録ありがとうございます。
また、嬉しいお言葉ありがとうございます。
これからも楽しんでいただける動画をお届けできるよう頑張ってまいります。
急行高千穂も壮大ですが、乗り換え案内に出てくる急行「あずみ」準急「うしお」「しんじ」や、東京発大垣行の昼行普通電車、飯田線の気動車列車等々今では考えられない列車がたくさん出てきて感動しました😃👍
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
また、嬉しいお言葉ありがとうございます。
時刻表を読んでいると毎回色々な発見があります。そのような楽しさをお届けすることができて大変嬉しいです。
長旅列車、東京から小倉までがかなり長く遠いが、小倉から宮崎や鹿児島までがこらまた長く遠い。
待ってた。これまた内容・視点がすばらしい。この音楽と時刻表の組み合わせも最高によい。
急行列車は周遊券で乗れましたので羨ましいですね
美祢線の石灰石輸送貨物列車、そういえば青梅線もかつて、奥多摩まで石灰石輸送の貨物列車が走ってました、牽引機関車も最盛期はED16やEF15等、晩年期はEF64-1000番台でした。
これはすごい。
作成するのに、相当大変だったのでは?と思う。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
嬉しいお言葉ありがとうございます。
情報収集、特に著作権に問題の無い画像を探す作業に時間がかかることが多いですね。ただ、その分、鉄道の勉強もできて役立っています。
このシリーズいいですねぇ。
定期的に長距離の懐かしいのを取り上げていただき、ありがとうございます。
一本の列車をこのように追う動画は全く新しい視点からで、とても新鮮に思えました。しかも、主要駅での駅弁案内までついてもう最高です!
でもこれは、一つ一つの駅を追うので作成に時間がかかることは、容易に想像がつきます。
どうか無理のない範囲で時間がかかっても結構ですので、いつまでも楽しみにお待ちしております!
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
また、嬉しいお言葉ありがとうございます。
本当に乗った気持ちになれるような動画を作成する事が、チャンネル開設時からの目標の1つでした。
仰る通り情報収集にかなり時間はかかりますが、情報を集めるほど、その列車が本当に走っているような感覚が増していきます。時刻表の楽しさをお伝えできるような動画を、これからもお届けできるように頑張ってまいります。
1970年に大阪から西鹿児島に向かって「桜島」に乗車しました。水俣で豪雨のために鹿児島線が不通になり、八代で乗り換えて肥薩線軽油、吉都線経由で小林の友人宅を訪ねる旅。帰りは臨時急行の「屋久島52号」で都城から帰阪。午後2時ごろの発車だったのに先行の特急彗星の故障で遅れに遅れて朝になっても九州内だったので、さすが日豊線と思いました。大阪以東の停車駅は米原も止まらなかったんですね。急行立山で富山にはよく行ったので、湖西線ができる前は米原には停車したと思います。県庁所在地なのに優等列車に無視されることで有名だった大津。停車しないのを不思議に思ったり。
当時の客車は扉は自分で開ける式ですから、走行中でもデッキから扉を開けて外の朝の空気を楽しみました。ただ、トイレ使用中は気を付けたほうが。。。。
駅弁の値段など、今から思うとすごいなと思います。64年なら大学卒の初任給は3万円もなかったと思いますから、約7~8倍で考えればいいかな。土瓶に入ったお茶は10円だったか。夏は冷凍ミカンが大好きでした。そういうこもごもを思い出させてくれた、素晴らしい動画です。また期待しています。最後に夜行列車で夜が明けてもいないのに、車掌が「あさです」と案内するのは?というクイズがありました。「厚狭」ですね。
ひとつの列車に絞ってのご案内も、良いですね🙆♀️一つ一つの駅名を見て思いを馳せています🚃
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
時刻表に載っている列車が再び走っているように感じられるような動画を目標としていましたので、少し目標を達成できたかなと嬉しいです。リストにすると駅の多さに驚き、長距離を走っていたことがよくわかりました。
@@tomoyankun さん
山口県内の(長府一ノ宮駅)は、正しくは(長門一ノ宮駅)ではないでしょうか。
仰る通り、長門一ノ宮が正しい表記ですね。
訂正文を概要欄に記載させていただきます。
ご指摘ありがとうございました。
昭和49年に大学入学時に実家から下宿まで荷物運ぶために当時周遊券というのがあり、広島と静岡を5往復しました。素晴らしい急行列車でしたし、他の大学生とも列車内で友達もできて楽しかったです。もう一度復活してくれたらなと思います。先頭の機関車はEF58電気機関車で駅に停車後の出発の時の衝撃がたまりませんでした。
この時刻と付帯情報が、車掌さんの携帯している時刻表のように見えてきて、どのような用語で放送していたのかなと思うとワクワクしてきます。
主要駅の時刻表も良いですが、列車単体に焦点を当てての企画も良いですね。
巡回列車や分割併合の列車も見てみたいです。
お疲れ様です。実際に旅している気分になれて大変素晴らしい動画です。有り難うございます。
そこで東京から西鹿児島まで乗り通した場合の料金について勝手に調べてみました。
一番安い2等座席車で乗り通すと、2等運賃2550円+2等急行料金300円の合計2850円。
贅沢して1等C寝台下段で乗り通すと、1等運賃4680円+1等急行料金660円+1等C寝台下段料金1430円の合計6770円でした。
当時の1等C寝台はロングシートタイプでクーラーも無かったと聞いています。また下り「高千穂」の1等寝台車は大分止まりでその先は座席車に移動する必要があったようです。29時間も乗車するのは1等車でも大変辛いことだったでしょう。
なお当時の時刻表を見ると上り東京行「高千穂」には門司から筑豊本線飯塚発の2等座席車が東京まで1両併結されたようです。下りは門司止めです。長文失礼しました。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
嬉しいお言葉ありがとうございます。
1等C寝台の料金の高さに驚きです。2倍以上の差があったのですね。当時の初任給が約2万円と言われていますから、かなりの高額だったことがわかります。編成についても大変勉強になりました。詳細な情報をコメントしていただき、ありがとうございます。
この企画めちゃくちゃいいですね!本当に列車に乗った気持ちになれます!またやってください!
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
嬉しいお言葉ありがとうございます。
本当に乗った気持ちになれるような動画を作成する事がチャンネル開設時からの目標の1つでしたので、大変嬉しいです。
かつての日本海縦貫した特急白鳥+信越白鳥とか、面白いかもしれませんね。
あと、大阪から福知山線→山陰本線をほぼ完走して博多に行く、特急まつかぜとか。
新しい、列車に光を当てたバージョンですね❣️
いつも精力的に作成有難うございます❤❤❤
古い時刻表での机上旅は、空想が膨らみますもん🙌🙌🙌
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
嬉しいお言葉ありがとうございます。
時刻表での机上旅は面白いですよね。紙の時刻表にしか存在しない魅力の1つだと思います。
うわ~ッ!、凄いリサーチ力😯
1975年に廃止になった編成について、よくここまで調べはりましたね♪
ともやん君様のこれまでの1つの駅に特化した時刻表はそれはそれで楽しい企画ですが、1つの編成に特化した時刻表も凄い楽しいです♪
私もこの急行への憧れは強くて、少年の頃によく時刻表の旅をしてました。
途中の「EF-58が牽引する客車を見てみたかったです」のくだりについて、私も「高千穂」に乗ったことはありませんが、実は小学生の頃に1泊2日の修学旅行でお伊勢さん参りをしたんですが、その際に乗ったのがEF58が牽引する団体専用列車でした。
団体専用とはいえ国鉄三ノ宮から国鉄鳥羽までの激レアな直行便なんて見たことないので、修学旅行本体より激レアな直行便の方にワクワクしてた記憶があります。
帰りも同じくEF58牽引の直行便だったのですが、帰りは前が見えないほどの土砂降りの大雨のせいで、客車の窓の隙間から雨粒がポタポタ垂れてたのを覚えてます。
三ノ宮から鳥羽まで直行便とはいえ、通常ダイヤの隙間を縫って走るため、のろのろ運転+いろんな駅で時間調整停車があり、行きは6時間で帰りは豪雨のため8時間もかかった記憶もあります。
それと、EF58牽引の急行「屋久島」にも乗車したことがあります。
私は神戸っ子なんですが私の父は岡山出身でして、岡山の和気から三ノ宮までの約1時間半ほどの短い距離でしたが「屋久島」牽引のEF58のエンジン音を堪能しました。
てことで、また楽しい時刻表の旅で脳活したいので、楽しみに待ってま~す♪
ちなみに廃止直前にはグリーン車はなく普通車も10系ではなくて、スハ43系だった。10系の陳腐化がすすんでいたためです。特にオロ11型は冷房化による低屋根構造や、下降窓の影響で陳腐化が酷かったそうです。
国鉄という全国規模のネットワークサービスが遺憾無く発揮されていた時代。
EF58牽引急行[桜島,高千穂]は1975年廃止直前に東京ミニ周遊券🎫で大阪→東京まで乗車した。下りは東京10:00発だったと記憶する。当時大阪に住んでおり夜の大阪駅には九州方面の寝台特急,急行(10系客車)が頻発しており急行[桜島][雲仙]は[💺🍀🛏️🍴]が連結されフルセット編成でした😂
寝台特急富士も1日に2本走ってましたのでどっかで2回すれ違っていましたが急行高千穂も2回どっかですれ違いますね。
急行の食堂車というものも体験してみたかったですね
ご視聴とコメントありがとうございます。
仰る通りで2回すれ違っています。
食堂車と言えば特急のイメージが強いですから
、急行の食堂車も是非体験してみたかったですね。
@@tomoyankun さん
当時の夜行急行の食堂車🍴🚄は、「高千穂」に連結されていた「オシ17」(1972年の「北陸トンネル火災」で事実上全廃)「マシ35」「マシ29」「スシ48」等がありましたね。
いや、3回だよ😉
距離でも時間でも日本最長の急行でしたっけ
ロマン溢れますなあ(遠い目)
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
距離、時間ともに日本最長急行でしたね。食堂車と寝台車が連結されていた頃の『高千穂』に乗車してみたかったです。
当時飛行機とか乗りようがなかった時代だからこそそう思うだけで、
LCCのある現代の人がこの列車を乗り通すって罰ゲームでしかないと思います。
1等寝台(が連結されてたかどうかは知らないが)に乗れるならともかく、
庶民が利用したであろう2等席(今の普通車)ならなおさらです。
運行時間に関しては終戦後引き上げ列車で九州の南風崎から東京までのほうが時間的にはかかっていたがこれは特殊な例です。
流れる景色を眺めながらリズミカルな走行音を聞くのは何よりの楽しみ。深夜走行の暗い窓の景色ですら楽しくて長距離列車旅の醍醐味を味わえますね。
お疲れ様でした。これも素晴らしい内容で超高評価です。凄い夜行急行ですね。右サイドの説明も参考・楽しめます。宗太郎付近で24時間経過、感動します。毎回楽しみにしています。作製大変でしょうが、よろしくお願いします。
大変懐かしい列車名を見てびっくりしました。思わずあまりに楽しく懐かしくてチャンネル登録させて頂きました!当時の特急急行にはほとんど食堂車ビュッフェが連結されて旅の楽しみでもありました。味も大変美味しかった記憶があります。当時の急行「桜島」には食堂車が連結されておりいつも珍しく眺めておりました。時刻表に載るあの食堂車やビュッフェのマークが本当に懐かしいです!これからもチャンネル楽しみにしております!
1964年の日豊本線宮崎地区は高速化・複線化・電化に向けて期成会を立ち上げ、また、沿線人口を増やすべく私立高校や専門学校を誘致したり駅周辺に移転等を行っていました。今でこそ日向住吉~宮崎・南宮崎駅間は通学需要が高く乗客数も多いのですが、この当時に頑張って増やしたからこそやと思います。
尾道糸崎連続停車というのがすごい。呉線方面の急行音戸に接続してたのかあ
ご視聴とコメントありがとうございます。
この時代の急行は一部を除き尾道、糸崎と連続停車していました。すごいですね。
急行音戸は大阪駅23:30発、急行高千穂は大阪駅23:00発でしたので、高千穂の後ろをついてきているような感じでした。ですので、正確に言うと、接続と言えないかもしれませんね。
急行音戸は寝台列車ですので乗り換える乗客はほぼいなかったのではないか?どうしても呉線沿線に行きたい乗客はその後の準急ななうらに乗るのではないか?ななうらも京都始発ですが!
乗換駅で1時間、2時間待たされて、更にその列車で終点まで行くのに何時間もかかるなんて50年前の列車の旅は好きな人はとことんハマるんだろうな。
主要駅には待合室がごく普通にありました。さらにはホームに洗面台が置かれていた駅も。
東海道・山陽そして日豊本線を経由し、鹿児島県に至る史上再長距離の定期旅客列車(多分)。距離と時間が長い分、目的地に着く頃には疲れ果てそうですね
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
一時の特急富士と並んで日本最長距離の列車でしたね。座席車に乗っていたとしたら、乗り通した後のお尻は大変なことになっていそうです。
@@tomoyankun 東京ー西鹿児島(現:鹿児島中央)迄走り通すのは、座席車の一部(寝台車・食堂車🍴🚄等は大分で開放)ですからね。
それでも大分迄一日…!
東京~大阪が7時間なのですね。特急こだま等と大差ないですね!それに食堂車もあったとは…
大阪に23時だと今みたいにホームライナーがわりに出来たもしれませんね。
鹿児島住みのジジイです
子供のころ、宮崎のじいさんとこに行くのに何度か乗りました。
当時はなんとも思わなかったのですが、あのボックス席に首都圏や関西圏から乗って来たと思うと、昔の人は忍耐力あったなぁと思いますよ
これだけの距離と時間を要するのに寝台車の数の少ない事!
当時の乗客は本当に大変だったでしょうね。。
日豊本線入ってからはこまめに主要駅に停まってて良いですね。
新幹線開業前は夜行列車の数も
多くて旅情を誘います。
それほどこの急行列車のニーズが高かったこともあるのでしょう。質よりもいかに大量の乗客を捌くかが求められていました。
この時代はドアを手で開け閉めしていたことから小さな駅での交換待ちの時に停車扱いとした駅もありました。下りは停車、上りは通過ということもしばしばでした。
高千穂もロングランですが、乗り継ぎで各地に普通列車でロングランする列車が多かった気がします。
時代は変わってしまいました・・・。
大変楽しませてもらいました。いい企画だと思います。
急行霧島の乗車記を”阿呆列車”で内田百閒先生が記していました。随分長い乗車時間だと思って読んでいましたが、さらに長い急行があるのですな。
走行距離で後のトワイライトエクスプレスをも上回る偉大なる列車だったんですね。今の世なら恐らく乗車記録をアップするRUclipsrもいたでしょう。
東京~西鹿児島(日豊本線経由)
急行高千穂
東京14時35分発
西鹿児島翌日19時50分着
所要時間29時間15分
特急富士
東京18時発
西鹿児島翌日18時26分着
(1978年10月当時)
24時間超えの走行は壮大な旅路だったと思う
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
「特急富士」であったとしても24時間を超えてしまうことに、その距離の長さを感じますね。
@@tomoyankun さん
当時は日豊本線が全線非電化で主に牽引機が「DF50」だった事を考えると、その位の時間になりますからね。
昭和31年11月19日:「高千穂」は併結を取りやめて全区間単独運転となり、運行距離を延長して東京 - 西鹿児島間の運行とする。同時に食堂車を連結。また、列車愛称も「高千穂」と漢字表記とする。
この時から日本最長距離を走る列車となり、全区間走破には31時間28分を要した。
しかし東京駅・大阪駅から西鹿児島駅へは到達時分の短い鹿児島本線経由が一般的であったため、同列車を全区間乗り通す客はそれほどいなかったといわれている。
@@juuxlb9401 さん
それまでは、「玄海」(東京~博多)と門司迄併結運転だっっけ。
Wikipediaの題名は寝台特急の「富士」
自宅が帖佐駅近くでした。「高千穂号」がディーゼル機関車で、ときには蒸気機関車で引かれて、帖佐駅を通過するのが、昨日の様に感じます。上京して、年に一回鹿児島に帰るが楽しみでした。
ご視聴とコメントありがとうございます。
素敵な思い出ですね。
当時の思い出を思い出すきっかけになったことが大変嬉しいです。
チャンネル登録後に視た初めてのパターンで新鮮でした👍。国道1.2.10号沿いの運行ですので、バックミュージックの切り替えタイミングはそこかと。全3曲♪。
いつもありがとうございます。
29時間というのは本当に長旅だったことと思います。様々な方の想いを乗せて走っていたことでしょう。
昼間は景色を見たり本を読んだり同じボックスでの語り合いがあったことと想像できます。
そして発車するときの汽笛や連結器のガシャンという音や揺れも旅のひとときでした。さらには駅弁の立ち売り。
動画を見て当時の光景が思い浮かびます。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
嬉しいお言葉ありがとうございます。
本当に乗った気持ちになれるような動画を作成する事がチャンネル開設時からの目標の1つでしたので、大変嬉しいです。
空調はありませんし、快適な車両とは言えないですが、「鉄道旅」の良さがそこにはあったのでしょうね。
家の前が東海道線が通ってたので
EF 58牽引の九州方面行きを
眺めてました。独特のジョイント
音でした。鹿児島行きが西鹿児島
行きになったのもこの頃だった
ような思い出です♪
これは楽しい企画ですね。もし自分が乗ってたらと思うと、どこでギブアップしたか気になります(笑)
通過駅全部や乗り換え、駅弁まで載ってるのは凄すぎます。
お疲れ様でした。そしてありがとうございます。
私の夜行列車の思い出は、「ヨン・サン・トウ」直前の8月、家族で東京に行った際に乗車した「急行 夕月(改正後の日南)」です。B寝台の冷房で冷えた梯子階段の冷たさが、50年近く経過した現在も強烈な印象として残っています。新大阪で新幹線に乗り換えたのですが、それは記憶に残っていません。
大変ご乗車、御編集お疲れ様です。
戸塚が無いと思ってwiki見たら納得でした。
湯河原や三島に止まらないのは強いですね。
今は飛行機、新幹線と言った速度重視の交通機が主流ですが、鈍行列車や長距離列車による旅という本当の旅の楽しさを何処かに捨ててしまったことは大きな誤ちをしているようにも思えます。
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
私も同じで、知っている駅名が無いことに気づいて違和感を覚えて調べてみると「なるほど」と思うことが多かったです。
「旅」の魅力は、目的地に行って楽しむだけではなく、その道中、過程にも存在していますよね。
おそらく湯河原や三島に止めなかったのは遠近分離のためだと思います。
東京から山陽や九州への客だけでなく大阪までの客とかも乗せて満員だった状態で
湯河原までの客とか乗せる余裕がなかったので、
湯河原とかの客には準急東海へどうぞってことだと思います。
三島はこの当時急行は停車しておらず沼津が停車駅だった。三島は新幹線が1969年4月に開業するまではあまり有名な都市でもなくて沼津が鉄道の要所でした。新幹線も沼津に停車したかったがカーブがきつくて断念した経緯がある。
米原にも大津にも停まらないので滋賀県内全スルー…
大津は京都に近いし、大阪ひだも通過するから理解できるのですが、当時の電車特急(つばめ等)の中には米原停車の列車があったのに停車しないのは不思議ですね。
北陸連絡はあまり考えられてなかったのでは?
東京〜名古屋も今や高速バスで5時間とこの時代の急行列車と変わらず。
九州日豊本線沿いも東九州道が全通、都城〜志布志も高速道路が来年には繋がり、当時の鉄道以上にスムーズに移動が出来る様になっていく。
昭和2.3.40年代の壮大な列車や特急に思いを馳せたり、高速道路網の発展している現代の高速バスを比べたりと色々できて非常に面白いです。
昭和3.40年代の鉄道より早く移動出来る公共交通機関のダイヤを見ると、こういうところに時の流れを感じます。
ご視聴とコメントありがとうございます。
高速道路網がどんどん出来上がっていきますね。便利になっていく反面、鉄道にとっては逆風になることは、個人的にはさみしい気持ちもありますね。
嬉しいお言葉ありがとうございます。これからも時刻表の魅力をお伝えできる動画を作成してまいります。
これを見ると
改めて鉄道の速さの進化を思い浮かべられますね
夏休みに飯田線沿いの母の実家に行く時、豊橋までよく乗りました。
窓全開にしていて、沼津過ぎて吉原あたりかな、製紙工場の強烈なにおいにむせかえっていたのを思い出します。
乗降扉が開きっぱなしで走り、ペダル踏んでトイレの水を流すと線路が見えた客車。
これほどロマンを感じる列車が他にあるでしょうか。
我が国では沿線での黄害問題があり、踊り子号が誕生した頃の東海道線でも東京~横浜はトイレを使うなと言う掲示がありましたね。
国鉄がJRになる頃にはタンク式で車両基地で抜き取るのが当たり前になりました。その基地のし尿処理設備の建設の反対運動が行われたところもありますが、、
その他にも外に出さないように様々な工夫が施されました。日本の環境技術の発展を物語るものです。
2010年にフランスの客車列車で下に線路が見える類いのトイレを見たことがあります。これには驚きました。
特急並みの停車駅ですね九州の駅には結構停車しますね特に立石停車には驚きでした
立石峠越えの補完機関車の切り離しの停車だったのでしょうか?この当時は峠越えの線路(単線)の使用だったのでしょうか?現在は下り線はトンネル上り線は峠下りで使用されていますが?次回はどの列車なのでしょうか?期待して待ってます
宮島口「うえの」のあなごめし、現在は1000円位はするのに1964年頃は100円で
販売されていたのですね。驚きました。
syoukodouさん
当時の4大卒男子の初任給が3万円余りの時代で
現在は20万円前後と考えると、大体の目安は付くと思いますよ。
@@原田寛-e3u
しかも今のような大卒が普通の時代でなく、
庶民が大学なんて行くという概念すらなく
小卒中卒が当たり前の時代だったのだから、
その3万円すらもらえない家庭が大半だと思うので、
百円ってのも食費にするには到底できなかったと思います。
@@DJKotony さん
所謂日雇い労務者の日給が254円と言われた時代ですからね。
@@DJKotonyさん 当時の国立大学の授業料は年間12,000円(現在の標準額は535,800円)。所謂「中流」と言われていた家庭でも、子供が3人4人いるのが当たり前。高校までが精一杯で、ましてや私大なんてとても無理だったと聞きますね。
それにしても長い間「西鹿児島」駅…
先に作られた鹿児島駅は、昔も今も街外れ
三島、掛川、米原、西明石、相生、三原と現在の新幹線停車駅を通過している。当時の急行は偉かった。
実は東海道新幹線の三島駅も本来予定ではなく、静岡県東部の代表駅である「沼津」に駅をつくりたかったのです。
しかし、沼津は地盤が弱いので三島に。
昭和36年3月、6歳の時初めて上京した帰り、母と二人で名古屋まで乗りました。
2等車でした。
前の席に荷物を沢山持った初老のおじさんが座りました。
おじさんは九州まで行くのでした。
横浜に停車すると、おじさんは窓を開け、お弁当を二つ買いました。
横浜を出ると、おじさんは、お弁当の蓋を開け、美味しそうに食べ始めました。
いい匂いがしていました。
私はじっとそれを見ていましたが、するとおじさんが、「僕も食べたいかい?」と言って、もう一つのお弁当を渡してくれました。
母が丁重にお礼を言い、頂くことになりました。
それは、横浜名物の焼売弁当でした。
ほんとに美味しかった。
名古屋まで、おじさんとお喋りをしながらの楽しい旅になりました。
今はもうそんな出会いが出来ない鉄道の旅となってしまいました。
急行高千穂号、懐かしい、いい列車でした。
あんな旅、またできたらなあと思います。
普通に窓を上げるだけ降車しなくてもお弁当買える?😳
@@晏华-n6k国鉄時代の客車は窓を開ける事が出来たそれは非冷房車だったから窓を開けて駅弁を買う事が出来たのです
昔は駅のホームに駅弁売りのおじさんが立って、沢山のお弁当を抱えて売っていました。停車中に急いでそれを買うのですが、とても便利でしたよは。
今ではそんな光景失くなってしまいました。
ちょっと寂しいです。@@晏华-n6k
大阪〜乗車する場合、前もってコンビニでビール、つまみ、朝食用の缶コーヒー、パン、おにぎりを買います。今なら(笑)
当時の庶民も前もって兵糧を携えてたか、停車駅が長い駅で立ち食いそばを呑んでたみたいですよ。
食堂車どころか駅弁ですら当時の庶民には高嶺の花。
庶民が1日働いて数百円の時代で駅弁が百円とかしてたようだし。
3:44 豊橋駅における飯田線の乗り換え列車は、正しくは三河大野行き、列車番号は639Mです。
この時代の[高千穂]の編成は下り方先頭の荷物車の後、1号車から14号車までの15両という長大編成で、そのうち東京~西鹿児島間を全線走破するのは荷物車、1号車1等指定席、2号車1等自由席、6号車2等寝台、7~10号車2等自由席の8両のみで、2等自由席の11・12号車2両は東京~宮崎間、3号車1等寝台C、4号車2等寝台、5号車食堂車、13号車2等自由席の計4両が東京~大分間の運転でした。
しかし…15号車の2等自由席のみは下りは東京→門司間の運転ですが、上りは…今ではほぼあり得ない様な実に奇妙な運用が組まれており、[高千穂]として連結されるのは東京←門司間なのですが、上りの始発駅は何と[高千穂]の運転経路とは全く無縁の飯塚発となっていて、[高千穂]に連結されるまでの門司←飯塚間は、京都~熊本間を筑豊本線経由で運転する上り急行[天草]に途中経路の飯塚から連結されて門司に22:11(門司22:26発)にやって来て、門司で切り離して22:07に先着している[高千穂]に再度連結した後、[天草]より一足早く22:20に門司を発車し東京へ向かう…というスタイルでした。
1両単位での増解結運用が可能な、如何にも国鉄旧形客車らしい組成の姿でしたね。
ゴハチがけん引していたんですね。
自分が物心ついたときにはもうゴハチも一線を退いてはいましたが
ごく一部貨物けん引などをしていたのを覚えています。
それと、実は実際に運転したこともあったりします。
今はなき浜松機関区のイベントで、現在リニア鉄道館に所蔵されている
157号機をわずか450mの往復でしたが(笑)
ロイヤルエンジンのオリエントエクスプレスけん引など、
EF58は小生にとって思い入れの深い機関車です。
すみません、少し話がズレました・・・
まだ山陽本線広島と小郡(現・新山口駅)間は非電化だったので広島からはC62型が多分牽引していたと思います。新幹線新大阪開業時に全線電化されていますので、この一ヶ月後のことです。
ワイは逆に、運転はないが、紀勢本線で牽かれた事はある😉
米原や、大津すら通過してしまうスパルタンな😳かっこええ🥰
ゴウマルサンダイヤ改正で廃止されるまで米原駅は通貨でしたが、大津駅は後に停車しました。
戦後の特急つばめ誕生の頃の蒸気機関車牽引のときには上り急行高千穂が大津駅てつばめに追い抜かれていたので、停車駅でした。その後ヨンサントウダイヤ改正では大津駅は停車駅になっています。
30時間近くもの運行時間に改めて驚きました、九州内を走っていた時に翌日分の下り『高千穂』が発車しているとは……😅
東海道本線・山陽本線内を走行中には停車駅がそんなに多くないのに対し日豊本線を走行中については停車駅がわりと多く感じられました。多分接続を考えてのことだろうと思うのですが、今では聞きなれないローカル線もあったので昔は九州にも多くのローカル線があったことに驚きです😅
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
30時間の列車旅、一度体験してみたいです。
私も同感で、日豊線に入った途端にこまめに停車していますね。接続列車も多くなり、地域輸送の役割も担っていたのでしょうね。
子供の頃急行霧島に乗ったことがあります。もちろんEF58でした。
寝台車ではなく、43系充当の普通車だったらかなりの地獄旅だったでしょうね。当時はそれがスタンダードだったのかも知れませんが、上野から仙台まで一度だけ客車鈍行を乗り通した時に、私は乗り慣れていた113系ボックスシートと同じだろうと高を括っていたことを後悔したことがあります。ましてや2日間となったら…。
18キッパーだった昭和時代、113系でも後期のシートピッチ改善車に当たると嬉しかったな。
時刻表で列車の運行するのを感じることがとっても楽しいです
いつもご視聴とコメントありがとうございます。
嬉しいお言葉ありがとうございます。
本当に乗った気持ちになれるような楽しみ方ができるところも、時刻表の魅力の1つですね。
超豪華なクルーズトレインも良いが、スマホに追われ、仕事に追われ、世知辛いギスギスした世の中になってしまった。
JRさん、採算は取れねぇかもしれねぇ。
だがよ。ふらっと乗れる自由席のついた夜行列車、また走らせてくんねぇかな
時間を忘れる。そんな空間もあっていいじゃん
ちょいちょい拝見させていただいてました。
登録させていただきました
当時はまだ寝台車がまだまだ高嶺の花の時代でしたよね
だから硬い座席車に揺られて東京からだと西鹿児島までかなりハードだったと思います。自分は大阪住みでしたがまだ幼児の頃、家族で母の実家のある宮崎に帰省するときに高千穂を利用したと思います、大阪が23時発で宮崎が17時過ぎ子供連れで硬いボックスシート。親はかなりきつかったと思います
この急行が止まる駅の近くに住んでいたのですが、行先が「西鹿児島」。子供の頃は「西鹿島」行き(国鉄二俣線・現天竜浜名湖鉄道、および遠州鉄道)だと思ってました。距離と時間全然違いますがな。。。 当時はEF58沢山見ました。この列車は最後まで(桜島と併結運転になっても)乗れなかったのが悔いの残る所です。東海道新幹線開業以降も東京から走ってましたからね。
ちくわ弁当がきになりすぎる。
山陽新幹線博多開業を控えた昭和49年の夏か秋頃に、桜島と併結されていた高千穂号の写真を、国鉄豊橋駅で撮影しました。
鉄道ジャーナルで同乗ルボ取材記事も読んだ。
東海道本線では、富士、尾張一宮、大垣、米原、大津は通過してます。(岐阜から京都間は無停車は特急並み❗)
新垂井の駅名も懐かしい。
寝台特急の「富士」号は、新幹線が開業した1964年10月1日のダイヤ改正で、東京〜大分間に登場。翌年の1965年10月1日のダイヤ改正で、大分〜西鹿児島まで運転区間を延長しました。 4:53
この頃大津駅は停車しています。
寝台特急富士は寝台特急みずほの大分編成が独立した格好ですが、1年後には西鹿児島まで延長された。しかしゴウゴウトウダイヤ改正では宮崎までに短縮されている。
この時から50数年も経過してるのに駅がほぼ変わらないのすげぇ
北海道みたくかそかしてないですからね。
北海道には消えた駅も多いですが。
急行高千穂、1975年まで走ってたんですね。見てみたかった。
1964年9月の急行「高千穂」は、上りが興味深い運行をしてますね。
まず熊本発筑豊本線経由京都行き急行「天草」が、飯塚駅で機関車次位に座席車を1両増結。
門司駅にて飯塚からの座席車を解結、4分前に先着していた上り急行「高千穂」に連結して東京に直通します。
現在では考えられない運用ですが、当時は需要があったのですね。
急行なのに特急並に停車駅が少ないですネ。桜島併結時代は記憶しておりますが、この頃の(高千穂)は清水 大垣 米原 大津 通過には驚きです!
急行「高千穂」🗼東京 → 横浜 → 小田原⚡️→ 熱海⛵️→ 沼津 → 🍊静岡 → 浜松🌲→ 豊橋🌉→ 🐔名古屋🏯 → 岐阜 → 🌲京都 → 🐙大阪 → 🎅三ノ宮🛩️→⚡️神戸 🚪→ 👸姫路 → 🍑岡山 → 倉敷 → 🦺福山 → 尾道 →🧵糸崎 → 🦪広島🏝️→ 岩国 → 🉐徳山🗻防府 → 小郡 → 西宇部 → 🍞厚狭 → 下関 → 門司 → 小倉🍞 → 行橋🌉→ 宇島🏝️→ 中津 → 宇佐 → 🐙立石 → 🌲杵築 → ♨️別府 → 大分 → 臼杵 → 津久見🛩️ → 佐伯 → 延岡 → 🍊南延岡 → 🔥日向市 → 高鍋🍲 → 🍁広瀬 → 🍊宮崎 → 🍊南宮崎 → 🍊都城🏯→ 🍊西都城🏯→ 🏝️霧島神宮⚡️→ 隼人 → 🦌鹿児島🏝️→ 🦌西鹿児島 🍀
すごく面白いです!
長距離鈍行なんかも見てみたいです……作るの大変そうだなぁ(苦笑)
気長に楽しみにしてます!
作り方がわかれば、自分も作ってみたいのですが。できましたら特急「富士」「まつかぜ(京都-博多)」、急行「日本海」でお願いしたいです。可能で有れば「白鳥(大阪-上野)」も。
ご視聴とコメントありがとうございます。
どの列車も大変面白そうですね。白鳥の上野編成は意外性もあって面白そうです。リクエストありがとうございます。
日豊本線の都農が都濃になっています…
いやーお疲れ様ですなw 自分の生まれるチョイと前の’64(昭和39)、国鉄が最後の華やかな時代を彩ってた頃ですか・・。ブルトレ、国鉄末期世代の自分はこういった旧客長距離夜行、まして食堂車つきなんて寸でのところで手が届かなかった歯がゆさがあるんですよw 今も「旅」というのは日本と言う国土をしっかり噛みしめ快適とは言えずとも時間をかけて堪能したいものです。ちなみに供食の値段だけど今は表示価格、当時の5~6倍くらいですかね。3:00 6:20
この頃ですとまだ広島と小郡の間は非電化で大型の蒸気機関車C62型や、D52型が最後の活躍をしていました。急行高千穂も広島からはSL牽引で多分C62型が下関まで牽引していたのではないか?山陽本線全線電化は新幹線新大阪開業と同時でした。
大船、富士、大垣、米原、大津通過…もう特別急行ですね。
一部ですが、特急白鳥とつばめは米原に停車する。しかし東京発着の長距離客車急行は米原はほとんど通過している。東京発着の153系電車急行は米原か、彦根の選択停車になっています。
新しい手ですね。これは見ていて実に楽しいです!この流れで、ヨン・サン・トオ時代以前の、北海道の雑念とした準急・急行を是非、お願い致します。「まりも(昼・夜行)→ていね→まりも(夜行)」とか、なかでも「たるまえ」が見たいです。ちょっと「たるまえ」って、マニアくさいですかねぇ。「たるまえ」好きなんだけどなァ。
ヨンサントウダイヤ改正で急行すずらん上下6号になりましたね!
3:54 1等のC寝台は、気になりますね❤
さよさわるんるんさん
1等寝台Cは主に「マロネ41」(戦後「進駐軍専用車」→後の急行「西海」「十和田」向けに造られたプルマン(開放型寝台)車両)ですね。
当時の主力1等B寝台(オロネ10など)と異なり、昼間は下段部分にロングシートのように座る形態でした。もはや「高千穂」が最期の活躍列車状態。
@@akiratan さん
元々「進駐軍専用車」時代は、負傷兵を搬送するための「マハ41」として運用されていた事も有りました。
別のこうでも述べましたが、正確にはマロネ29型ですね!
なんか停車駅で窓を開けて買える駅弁も美味そうだ😍😍
おそらく通して東京から鹿児島まで乗車した乗客はそんなに多くなかったかもしれない。急行なので、区間、区間の利用も多かったに違いないですね。ただ今と違って当時は飛行機での移動が高額で贅沢だったので、東京と九州方面を結ぶ貴重な移動手段だったと思います。編集お疲れ様です。
あと、当時は沖縄返還前で、沖縄から東京・大阪行くには、まず鹿児島行く船🚢乗って、西鹿児島で切符🎫買う。沖縄では国鉄の切符は売ってなかった。そして、「はやぶさ」等は人気で満席🈵の場合があり、こうした列車が重宝された😉
10:40 こんな深夜に普通列車との接続があるとは驚き…!
実際に高千穂に乗ったことがありますが、小学校1年から2年になる時の春休み。そう考えると1966年かな?午前中東京駅発だったと記憶しています。窓が開く寝台車でした。窓から海をみていた場面が記憶にあります。おそらく根府川あたりだったのかな?
スマホで検索できるようになってから時刻表買わなくなったのでレ印がなんか懐かしいです。四国生まれとしては岡山で接続あるのは涙がちょちょきれます(( ;∀;)
「高千穂」なのに、高千穂線との接続が無いと思ったら、当時は日之影線だったんですね。
他にも急行筑紫という列車がありますが、急行高千穂と違って、鹿児島本線経由ですが、東京を午後に発車するため、関西まで1泊、そして鹿児島本線で1泊…と2泊3日の運行となるらしいですね。
この時点では名古屋始発になっている急行さつまは2夜行運行で東海道区間と鹿児島本線が夜行運転だった列車もあった。
日豊本線の「東都農」駅、「都農」駅ですね。
立石に停車したのは、峠越えの補機の関係でしょうか。
急行「高千穂」 東京 → 横浜 → 小田原 →熱海 → 沼津 → 静岡 → 浜松 → 豊橋 → 名古屋 → 岐阜 → 京都 → 大阪 → 三ノ宮 → 神戸 → 姫路 → 岡山 → 倉敷 → 福山 → 尾道 →糸崎 → 広島 → 岩国 → 徳山 → 防府 → 小郡(新山口) → 西宇部 → 厚狭 → 下関 → 門司 → 行橋 → 宇島 → 中津 → 宇佐 → 立石 → 杵築 → 別府 → 大分 → 臼杵 → 津久見 → 佐伯 → 延岡 → 南延岡 → 日向市 → 高鍋 → 広瀬 → 宮崎 → 南宮崎 → 都城 → 西都城 → 霧島神宮 → 隼人 →鹿児島 → 西鹿児島 😮
西宇部(宇部)
広瀬(佐土原)
西鹿児島(鹿児島中央)
列車毎の時刻表の旅ですか…。今までとは趣向を変えましたね。
リクエストとして、平成前期辺りに存在した、熱海・米原間のロングラン各停をお願い致します。
自分はこの列車、熱海から乗り通しました。車両は113系の3両編成でした。先頭車のどちらかがモハ→クモハの改造車でした。
東京から熱海までは185系の普通で、米原からは117系の新快速で大阪にいきました。
思ったこと
(1)29時間も走るのに寝台車は3両で座席車が10両、しかもそのうち自由席車が9両ということは、長距離利用より区間利用の方が多かったということ?
(2)途中停車時間が意外に短い。駅での立ち売りや食堂車への食材の積み込みは忙しかったことだろう
(3)駅弁の価格が100円から200円。これを単純に7倍すると今の感覚に合いそう。食堂車のメニューに適用すると、
カレーライス 700円
スパゲッティ 1050円
幕の内 1400円
コールミート定食 2450-1750円
シチュー定食 2450円
ビーフステーキ定食 4200-2800円
当時の指定料金や駅弁が百円だと聞いたことがありますが、
大卒が稀少だった時代の大卒初任給が1万円ほどの時代において
(つまり小卒中卒が多数派であった庶民はもっと少ない給料で一家を養ったでしょう。)
その百円すら惜しくなるのは当然のことで、
たとえ鹿児島まで乗り通すにも自由席に乗って立席覚悟で臨んだと思います。
掛け算の九九もわからないようなアホンダラがイッチョマエに学士様になって
それなりの名が通った会社の正社員様になれる現代とは全く違うってことをご理解ください。
その通りで寝台車なんて庶民には料金が高すぎて手が出せる時代ではなかったのです。今の感覚でいうと飛行機のファーストクラスくらいか?寝台車が大衆になるのはヨンサントウ以降くらいで583系が誕生した頃からですね!だから1等車なんてとてもとても高嶺の華で政治家や、芸能人などほんのひとにぎりです。何しろ1等料金は2等の倍に2割の通行税がかかっていて特急や、急行料金も1等料金で別料金だった。
停車駅から見ると特別急行ですね、
当たり前だけど、新倉敷が玉島、西広島が己斐、新下関が長門一ノ宮になってる…他にも現在と違う駅名のとこあるんかな?
岩淵→富士川
神足→長岡京
周防富田→新南陽
小郡→新山口
西宇部→宇部
(当時は今の宇部新川が宇部でした)
広瀬ってどこやと思ったら佐土原だった。
決定的な違いは「新大阪」がないこと......
おー、大学生だった親父がちょうどこの頃、急行高千穂の自由席で帰省していた話をしてました。1人一本どぶろくの一升瓶を買って固いボックス席に乗ってた話や、一度、きしめん買おうとして名古屋駅で降りたら戻り遅れて翌日、同乗の大分・宮崎方面の仲間らが降りるべき駅(中津)に荷物だけ置いて行ってくれたなんて思い出も。この素晴らしい動画を親父にも見せてあげたかった。ありがとうございました!